何者かにならなければいけない圧力

流動化する社会

生き方が自由に選べる時代になっている。「流動化」という言葉で表現される事態が発生している。しかし逆に言えば、自ら「これだ!」と思うことを選び取って(あるいは作り出して)自分自身がそれにコミットしていかなければならないわけである。これが現代人を苦しめる一因となっていると多くの社会学者が指摘している。そして、私もこれに苦しめられているうちの1人である。

みんな「社会人」っていうけどさ

「社会人」という、みんなが使うけど抽象的すぎて全く何を指しているのかわからない言葉がある。日本では、大学や専門学校などを卒業し、働きにでた時点からあとのことを「社会人」と呼んでいるようだが、どうなったら社会人になれるのか?私にはまったくわからない。ビジネスマナーを習得すればよいのか?周りの人に迷惑をかけないように生きれるようになれば良いのか?おそらく、どれもその一面を切り取って論じているだけであり、包括的な説明にはなっていないだろう。そもそも、「社会人」という概念がもつ抽象性が説明をできなくしていると言い切ってしまってよいだろう。

「社会人になる」を、ここではとりあえず、教育期間が終わり、なんらかの仕事に携わるようになった状態、と仮で定義して話を進めてみよう。「社会人」になる=なんらかの職業につく、という理解には読者の同意がとれるであろう。我々は、「職業人」となり、その道のプロとして市場に労働力を提供しなければならなくなる。前近代までは、生まれた瞬間に何を生業としていくべきかがすでに決まっていたので(私はこれを「生まれた瞬間に内定」と呼んでいる)、この必要がなかったが、近代以降、就職する、ということは、その道の「プロ」として、ふるまわなければいけなくなるわけだ。

何者かにならなければいけない圧力の発動

「私は〇〇です。」この〇〇の部分、医師とか、学者とか、行政マンだとか、そういう職業が入るパターンが多い。逆に、〇〇です、といえない人は、社会の「外」にいる人だと、人々から見なされてしまうだろう。だからこそ、「社会人」(=社会を構成する一員とも換言できるかもしれない)になる要件として、「何者かにならなければいけない圧力」が駆動するのである。

同時にこれはアイデンティティクライシスの問題とも通ずる。「流動化」によって、生まれた瞬間に内定、という事態が発生しなくなった現代では、自分が一体何者なのかを規定するものがないのだ。自己紹介をするためにも「何者」かにならなければならない。自分は一体なんなのか。わからない。そんな状況を社会が作り出しているのだ。

「何者かにならなければならない圧力」はこうしたところから発生している。そして、ここの問題点としてあげられるのは、「社会人」以外の存在は「何者か」に含まれないことだ。これについて論じると、また話が長くなってしまうので、また次の記事ででも。