青森ねぶた祭のときだけ、青森市観光課によって設置されるキャンプ場。どのように誕生し、現在まで至っているのか?その歴史を知っている旅人の多くは、もう来なくなってしまっているから、伝承(?)もままならなくなっているのではないか?そこで、ここで紹介したいと考えた。
キャンプ場の歴史はまさに、ライダーチャリダーのクレイジーな行動が重なって築かれてきたもの。涙あり、笑いありのハチャメチャストーリーを、共有したい。
このページでは、キャンプ場がうまれた社会的背景から、旅人が毎日参加する運行団体が決まるまでをしるす。
若者がこぞって北海道を目指す時代
「カニ族」「ミツバチ族」の発生
1960年代から、国鉄が発売した「ワイド周遊券」を利用して北海道を貧乏スタイルで旅行する若者が発生!
列車に乗り込む際、荷物が干渉してうまく乗り込めないのを防ぐため、カニのように横歩きだったことから、「カニ族」と名付けられたそう。
その後、1970年代から1990年代にかけて、バイクで全国から北海道を旅行する「ミツバチ族」も発生!バイクでブンブンいわせるところから、この名がついたようだ。
この人達が、ねぶたのキャンプ場を発展させた。
フェリーターミナルの芝生に居座りだすライダーたち

ねぶた開催期間中に限定せず、夏になると旅人が青森フェリーターミナルの芝生にテントをはって、長期滞在する人たちがでてきたらしい!
こうなった背景は次の通りだ。あまりにライダーが多かったので、フェリーの輸送能力を超えてしまい、予約の取れたフェリーが一週間後というのも珍しくなかったという。そんな状況なので、みんな芝生に勝手にテントはって、かつフェリー運行会社も黙認するという状況だったらしい。
おっしゃ!海を渡れば北海道だ!え?次のフェリーが一週間後?!?!
まぁみんな同じだ。みんなその辺の芝生でテントはって船待ってるからお前もきぃや。そうだ。今ねぶた祭やってるから、その辺のスーパーで跳人衣装かってきて一緒にはねようぜ!
こんな会話が何度もされて、キャンプ場がこの時期だけ安定して自然発生し続けたようだ。私は、この形態のキャンプ場が1980年代には成立していたことを確認した。これが現在のキャンプ場のもとになっている
統治はされていたのか
運営・管理はテキトー
今では、「総長」と呼ばれる旅人のリーダーがキャンプ場を仕切ってくれているが、当時はそんな統治システムがあるわけもなく、「目立ちたがり」や「でしゃばりたいやつ」がいきなり仕切りだして、従うやつもいれば、従わないやつもいるという有り様だった。うーん、なんとも旅人らしい・・・
しかも、旅人だから、毎年必ずねぶたにくるわけもなく、しばらく存続した大きなグループの長が周りのグループをしきった年もあったそうだが、基本的には、仕切り役は毎年かわっていたようである。うん、これもいかにも旅人らしい・・・
そんな中あらわれたのが二代目総長
群雄割拠のなかで、旅人たちの統制を宰相的なポジションで概ね成功させた人物がいた。それが二代目総長である。二代目総長は、旅人たちの前で堂々と仕切ることはなかったが、「運行団体や地域住民との交渉」や「キャンプ場内の各グループへの伝達」といった裏方事務作業を通じて、旅人のねぶた参加を実現させた影の立役者だったのだ!
現在のように、旅人跳人の跳人行列への参加を毎日認めてくれる団体はなかったようで、毎日、その都度その都度、二代目総長が受け入れ先の団体を探し、話をつけて、旅人たちに伝達していたようだ。努力がすごすぎる。。。
当時の旅人跳人はカラスだった

今でこそ、跳人不足も相まって、旅人跳人はいろんな団体から参加を要請されるようになった。しかし、当時は、サークルはじゃんじゃんつくるわ、笛はふくわ、着付けはきたねえわ、荒らしまくるわ、飲酒はしまくるわ、であんま良いイメージはなく、「ぜひうちの団体でライダーさん跳ねてくれ!」なんていってくれる運行団体はいかなったようだ。
そりゃあたりまえですよねえ。また、カラスとの抗争も若干あったようだ。
せっかく楽しく旅人が跳ねてるときにカラスハネトはそれの邪魔をしてくる。それに起こった旅人跳人がやりかえす。そうなると、まぁ、喧嘩になりますよねえ・・・
そんなんだから、二代目総長は毎日、受け入れ先を探さなきゃいけなかったわけだ、、、
旅人は、二代目総長にも地元民にも迷惑かけすぎだけど、それでも愛らしいなあって思えてしまうのはなんでなんでしょうねえ。
バイクパレードの芽生え

もはや青森ねぶた祭の一風物詩として認識されているバイクパレード。これの芽生えはこの時期だった。
ただ、当初は、今のような立派なバイクパレードを誰かが意図的にやろうとしたわけではなく、結果としてこうなってしまったというのが実際のようだ。
迷子予防のため実施
はじめてくるライダーは、道に迷って会場にたどり着けなかったこともあったようだ。なので、それを防ぐために、まとまっていこうか、というのがバイクパレードのはじまりだという。
また、平成4年まで青森ベイブリッジがなかったので、ライダーはバイパスを経由して遠回りで会場に向かっていたことから、現在のように一本道で会場にたどり着けなかったことも、迷子ライダーを生む要因だったようだ。
現在のように「駐輪場係」や「先導係」といった係が整備されていたわけでもなく、また出発時間を管理する総長がいたわけでもないので、準備ができたグループから出発する、といった形だったようだ。
いつから、現在のような一斉スタート方式に変わったのかは、残念ながらまだ明らかにできていない。
旅人、参加先、きまる

毎日参加する団体が変わっていた旅人。そんな中、旅人をひろってくれる団体が現れる。それは、二代目総長が懇意にしていた某団体である。
「毎日うちの団体で跳ねていいぞ。だけどそのかわり、ねぶた祭を荒らすような行為は謹んで、ちゃんとハネトとして跳ねるんだぞ」といわれ、旅人跳人は安定して参加できるようになった。
たぶん、このきっかけが、旅人が、カラスハネトと一緒に排除されるか、あるいはねぶたの運行を助けるようになるかの分かれ目だったと思う。二代目総長が某団体の親方の信頼を勝ち得たがゆえ、旅人は青森に受け入れられ、現在まで生き残ることができたのだと私は考える。
最後に
私は、このねぶたのキャンプ場は、「必然的に」自然発生したものと考えている。北海道へと続く太い旅人の動線、青森ねぶた祭の存在、船まちの必要と芝生、などなど、これらの要素が絡みあってキャンプ場が成立したものと考える。
次の記事では、フェリーターミナルのキャンプ場が閉鎖され、さらには、なんとせっかく受け入れてくれた某団体がそもそもねぶたを運行しなくなっちゃって、旅人がまた路頭に迷うことについて話すことになる。
「安定」ほど旅人に似合わない文字はないよね。
その2はこちら↓
参考文献
- 朝倉俊一(2010)「カニ族の時代」
- 朝倉俊一(2011)「ミツバチ族の研究」
- 難波功士(2007)『族の系譜学』
聞き取り協力
本記事はねぶたのキャンプ場の古株の皆様からの聞き取りにより成り立っております。ここに調査に協力してくださった古株の皆様に感謝申し上げます。同時に、貴重な証言をもとに構成している内容でもあるので、無断転載等は固く禁じます。
また、本記事を公開するにあたり、本キャンプ場に長く関わっている方から監修をうけております。
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