観光研究において、主題となってきた真正性。つまり、ヒトはなぜ旅にでるのかという観光研究を志すものならば誰しもが一度は考える大きな問いにアプローチする1つの方法として、真正性(ほんもの性)が注目されてきた。
真正性。たまに「しんしょうせい」と読む人がいるが、一般的には「しんせいせい」と読む。もっと簡単な表現をすれば、ほんもの性である。これは、英語「authenticity」の訳である。
観光は、ここにはなく、旅先にあるほんものを追い求めるものだと考える人は、今日においても少なくないと思われる。じじつ、この観念が我々を旅へと動かし、旅先で「ほんものに出会った!」と満足する人もいるだろう。しかし、この真正性概念は、ここ70年ぐらいの間で、かなり揺れ動いてきたものだ。このページでは、それについて取り扱うこととしたい。
特に、大学の授業で真正性についての話があったけども、いまいち理解できなかったという学部生、卒論の執筆にあたって真正性議論を踏まえたい学部生なんかは、この記事を読むと良いんじゃないかと思う。
実は、このブログにおいてもっとも読まれている記事は、「perfomative authenticity」や「演出された真正性」に触れた記事である。そうなのに、基本的な真正性の議論はあまり触れていなかった。そこで、この記事において、簡単ではあるが、真正性にかんする基本的な理解ができるようなものを説明したい。
ブーアスティンの本質主義的な議論
ブーアスティンという学者がいる。観光の真正性の議論をはじめた人だ。観光をする人は本物を追い求める。だけど、観光という娯楽性の高いものを通じて出会ったものなんて、それはほんものじゃない。だから観光客はずっとほんものにたどり着けないんだ、と彼は論じた。
ブーアスティンは、観光客ではなくて、研究者や貴族のグランドツアーなどではほんものに到達できるとおそらく想定していたようだ。そんため、ブーアスティンのエリート主義的なところがまず批判される。初期に彼を批判したのが、マキャーネルであった。
マキャーネルの議論
マキャーネルは、ブーアスティンのエリート主義的傾向を批判する。マキャーネルのいわく、観光者であっても、ほんものをもとめて、もがいているんだ。だからその事実を、エリート的な立場から否定するのは違うでしょ、とつっこみをいれた。
でも、ブーアスティンもマキャーネルも、本物なものがどこかにある、だけどそれに到達できないこともある、というスタンスをとっている。後の研究者には、この立場が批判されることになる。
確固たるほんものなものなんて、ないんだ!
確固たるほんものなものがある、というスタンスを本質主義という。20世紀後半の人文社会学領域においては、確固たる「ほんものなもの」をみんなで探そうぜ!、という本質主義的アプローチから、全ては構築されているんだ、だからどのようにして構築してるかをみんなで考えようぜ!、というスタンスである、構築主義へと転回した。たとえば、ナショナルイメージ(その国が古来から受け継いでいるとみんなが信じ込んでいるイメージ)がそうである。スコットランドといえば、スカートを履いたバグパイプのおっさんが、ハイランド地方の雄大な自然のなかにいる、みたいな風景を思い浮かぶだろうが、それは、ここ100~200年ぐらいの間に、「発明」されたものなのである!
まさに、観光は、「その国らしさ」を演出する巨大装置なのである。そしてそれがあたかも「真正なもの」(ほんものなもの)だと、メディアを通じて人々に思い込ませる。そして、そのイメージを希求した人々が、観光地で、そのイメージを再確認し、「ほんものなもの」に到達した、と満足する、というのが観光の基本的な(いや、もはや古典的ではあるが、基本部分は大きく変わっていないだろう)構造である。
実存的真正性へ
とはいえ、最近の真正性研究では、もはや構築主義的アプローチもとられなくなってきている。というのも、スコットランドにいってスカートを履いたバグパイプを奏でるおっさんをみて、「あぁ、スコットランドにきた!」って思わなくはないとしても、どちらかというと、スコットランドで得た感情、経験、身体感覚などで真正性を感じちゃう、ってのを主題にしていこうよ、という感じの動きになってきているからである。
たとえば、ツール・ド・フランスという、世界で最も有名な自転車競技レースの大会がある。選手が激坂を必死にかけあがる映像が全世界に発信され、それを見た人のなかには、「自分も体験してみたい!」と思ってしまうわけである。で、その人が実際にその激坂を訪れて、大汗をかきながらヒルクライムをする身体感覚を通じて、「あ、おれはまさに、ほんものの体験をしている」と感じてしまうわけだ。これが実存的真正性である。
真正性議論のおもしろいところ
これまで述べてきた議論とは毛色の違う議論もある。たとえば「ほんものじゃないとわかりきっているのに、ほんもののようだ!と思って楽しんじゃう!」っていう現象。そのほかに「ほんものじゃないからこそ、頑張ってほんものっぽくしよう!」ってい現象。
前者は、ディズニーランドが好例。すなわち、ディズニーランドなんて、全てが作り物の偽物だなんて、小学生でもわかりきっていることである。しかし、それを百も承知のうえで、あたかもほんものであるかのように考えながら、その世界に没入して、楽しむ、っていうことを、わりとみんなやってるよねって話。
後者は、ぼんぼり祭りが好例。「花咲くいろは」というアニメ作品のロケ地となった温泉街には、ぼんぼり祭りという行事は元々存在しなかった。しかし、アニメ作品のなかで描かれたぼんぼり祭りを、ロケ地となった実際の温泉街でもやろうという話になり、やってしまったのだ。
まぁ、ここまでは、コンテンツツーリズム研究においては、わりとあるあるである。銀魂のぎんさんがもってる木刀に「洞爺湖」とほってあるから、実際に洞爺湖のお土産屋さんで取り扱う木刀にも「洞爺湖」といれちゃったりとかね。
ぼんぼり祭りの面白いところは、ここからだ。ぼんぼり祭りは、誰がどう考えても、まがいものである。だからそのまがいもの性を少しでも軽減しようとしたようだ?。その結果何がおきたかというと、神社の神主がきちんと宗教的儀式を行い、その祭りの正当性を高めようとしているのだ。
真正性がないなら、作ってしまえばよい。そんな話な気がする。
最後に
真正性の議論は、正直不毛である。だから私は正直好きではないし、立ち入りたいと思う領域ではない。
本質的真正性→構築的真正性→実存的真正性と、転回が起こってきたが、また転回が起こるかどうかは、筆者には未知数であるというのもある。
事実、真正性の亜種がどんどん報告されてきただけである、ともいえる。それでも、真正性議論に魅了される研究者は少なからずいるみたいだから、そういった研究者のから続報を、私は楽しみにしている。
参考文献
橋本和也(2016)「スポーツ観光研究の理論的展望」『観光学評論』
※すいません、一部なんの本で読んだか忘れてしまって引用を明記できてないです。思い出し次第追記します。
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