青森ねぶた祭中止の歴史

ねぶた

毎年変わらず、青森ねぶた祭は実施されてきた。青森はねぶたが中心で1年が回っているので、これをやらないなんてありえない。しかし、過去に近現代に入ってから、過去に2度ほど、ねぶた祭が中止になっている。さらに江戸時代末期には、令和2年と同じく感染症流行により運行中止となった年もあった(4月8日追記)。

今年(2020年)は、コロナウィルスの影響により、実施内容の変更や開催の可否について検討する場合があるとのこと(3月31日現在)。では実際に、今までどのような時に中止となったのであろうか。歴史をふりかえってみたい。

明治以後で中止になったのは今までに2度

明治政府により明治6年から明治14年まで禁止

江戸時代から続いてきたとされるねぶた祭であるが、明治時代に入ると、明治政府から派遣された当時の青森県令(今の県知事に相当)により、地方の旧習は悪習と決めつけられ、禁止されてしまった。これが1度目の禁止となる。

実はこれ、当時としては全然珍しくない。明治政府は欧米諸国に引けを取らない、近代国家日本を作り上げるべく、欧風文化をじゃんじゃん取り入れようとした一方で、非科学的・非合理的な地方の民俗文化を蛮行と決めつけ禁止した。今となっては考えらえないが盆踊りなども禁止対象であった。こうした波が全国で起きており、ねぶた祭もこの煽りを受けた形となろう。

その後、明治15年には解除され、また堂々とできるようになったが、実に9年間も姿を消していたことになる。

第二次世界大戦により中止。昭和20年

大空襲も受けた青森市。さすがにこの時はできないだろう。事実、昭和12年からまともに運行ができなかったようだ。しかしそんな中でも昭和19年、すなわち終戦の1年前限っては、戦意高揚をねらってあえて開催されている。ねぶたを戦争利用した歴史もあるわけだ。

江戸末期の「お差し止め」

さて、時代が前後して恐縮だが、実は江戸時代にもねぶた祭の中止危機があった。というより、津軽藩から「今年はねぶた出すな」の命が下ったが、無視して運行→謹慎の流れを繰り返したのが実際のところだ。この時には既に、津軽人のねぶた馬鹿ぶりが露呈している。

作柄悪く藩からねぶた運行禁止令 天保14年(1843年)

あまり農作物がうまく育たなかったことが理由で、藩がねぶたをだすなとお達しをだしたようだ。しかし、全ての町からねぶたが出てしまい、結果として名主全員が家での謹慎処分になっている。

外国船が津軽藩領沖合に現れ騒然 嘉永3年(1850年)

黒船と同じように、津軽藩沖合に異国船が来航した年がこの年である。これを受け、津軽藩領は騒然となり、いわば「有事」という認識だったのだろう。ねぶた運行がまたしても藩令で禁止された。しかしまたしても町民は藩令を無視してねぶたを運行。全町内(全戸)に対し謹慎処分が下された。

麻疹(はしか)流行でねぶた運行せず 文久2年(1862年)

この年は不作に加え、はしかが大流行し死者も多くでた。それを受け、ねぶたが運行されることはなかった。つまり、感染症大流行が理由でねぶた祭が中止になったのは令和2年が初ではない、ということである。そして、翌年文久3年は、景気は悪いままだったが、ねぶたを盛大に運行したとのこと。希望はここにある。

令和2年の「お差し止め」

時は変わって令和の時代。藩や政府に代わり青森ねぶた祭実行委員会が開催の可否を決めるようになったが、コロナウィルス感染拡大防止のため、4月8日に本年の中止が決定した。

最後に

コロナウィルスがどこまで広がるかわからない。東京オリンピックの開催が決定すれば、なし崩し的に自粛解除の流れが広がり、問題なく色々なお祭りもできると思ったが、そうも行かないことが確定した。感染症の大流行によるねぶた中止は今回が初ではないと考えれば、気持ちも少し落ち着くのではなかろうか。

令和2年のねぶた祭の在り方を考える

みんなが失意の中にいることはよくわかっている。しかし落ち込んでばかりでもいられない。ある旅人がこんな新しい形のねぶた祭を提案している。一考に値する。

参考文献

青森ねぶた祭公式Webサイト「ねぶたの変遷」『青森ねぶた祭』2020年3月26日閲覧。
青森市『青森ねぶた誌 増補版』2016年
東欧日報Web記事

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